演奏会プレトーク補足 シューマンとメンデルスゾーンのお話 第3回

リガ旧市街の夕焼け(ラトビア)

プレトーク補足、完結編となります。

日本の音楽には、もしかするとメンデルスゾーンとシューマンからの流れがあるのでは?と言うお話を少し。

第1回の【メンデルスゾーン】第2回の【シューマン】も合わせてお楽しみ頂けたら嬉しいです。

先日のアリエッタ交響楽団演奏会、開演前に指揮者と一緒にプレトークさせて頂きましたが…… 「ああ〜、ど〜してあの話をしなかったか...
「諸君、帽子をとりたまえ!天才だ!」 という当時の「流行語大賞」間違いナシの名言とともに、ショパンの名を響き渡らせたシューマンの魅力に...

アリエッタ交響楽団第9回演奏会、プレトーク補足【シューマンとメンデルスゾーンのお話】と題しまして

それでは3回め。はじまり、はじまり〜

第3回【音楽史の大流もまた大河の如く】

もちろん他の様々な作曲家の影響もありましょうが今回、このような補足を書くにあたり、調べていくうちに、そのような考えを持つようになりました。

瀧廉太郎と西洋音楽の接点

先日のことメンデルスゾーンの交響曲2番の出だしを聴いておりましたら『箱根の山は天下のケン』に似てる?と言う話になり、何気なく瀧廉太郎について調べて見ると、そこにはメンデルスゾーンやシューマンとの接点が見え隠れするのです。

鎖国が解かれ、明治時代は日本と西洋音楽が大きく関わり始めた頃。

国を挙げて、西洋文化を取り入れていこうという風潮があり、ごく一部の人たちの間に、西洋音楽が少しずつ広がりを見せてきました。

瀧廉太郎は日本の音楽史上初めて(と言ってしまうと少々語弊がありますが)

ヨーロッパ音楽の橋渡しを行なった一人。

実は、瀧廉太郎はメンデルスゾーンとシューマンに影響を受け、留学先もメンデルスゾーンが設立者のライプツィヒ音楽院でした。

間違いなく、シューマンとメンデルスゾーンに触れていたことでしょう。

時代としてはシベリウスの「フィンランディア」やエルガーの「威風堂々」が完成したあたり。もしかしたらこの辺りの楽曲も聴くことができたかもしれません。

そして、それに続く名だたる作曲家が瀧廉太郎の音楽性はもちろん、ヨーロッパから聴こえてくる作曲家の影響を受け、当時の動揺や歌謡曲などに盛り込んでいき、我々の知る日本の古い歌が作られていきました。

ということは、日本の古き良き音楽を知る私たちは、メンデルスゾーンやシューマンの楽曲を聴いて

「素敵だなぁ」

と、感じる何かを持っているのではないでしょうか。

瀧廉太郎の「荒城の月」や「花」や
ちょっと渋いところでは「憾」とか

これらを聴いて「美しい曲だなぁ」と感じる方は、もしかしたらメンデルスゾーンやシューマンの良さも分かるのではないでしょうか。

何世紀にも渡り、続く、西洋音楽の歴史という大河。

遥か遠く、ヨーロッパからの流れは少なれど、その雫(しずく)は、日本でも少なからず受け継がれているのかもしれません。

終わりに

アリエッタ交響楽団の演奏会プレトーク補足から書き始め、3回にも渡り、まさかここまで広げてしまったかと少々焦っておりますが

メンデルスゾーンとシューマンという作曲家についてお読みいただきました皆様が少しでも身近に感じられましたら、またご自身の音楽人生の何らかの糧となりますれば幸いです。
2017.9. Tokyo.

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